2006年06月01日

息子の成長(幼児期〜小学校卒業)

生まれたときには、未熟児だった我が子。
元気に育った。

 3歳から地元の保育所に通い、人見知りもせずに誰からも可愛がられた。
爺・婆と買い物に行くと、魚や等では、売り子の叔父さんと一緒に客引きしたり、病院に行っては、あまりに五月蠅くして診察のイスから転げ落ちて怪我したり。
腕白だった。

 幼い時から、運動会が大好きだった。
前の日までの練習で張り切って大暴れするモノだから、当日熱を出して見学する事も2度ほどあった。
 雨の日に、町民運動会が開催された。
息子は、どうしても運動会に行きたいという。
私は、汚れるし寒いから行きたくない。
結局行かなかったが、一日中ぐずられた。

 忘れられないのは、家族でディズニーランドに行ったときのこと。
上の姉の2人は、落ち着いて迷子にならなかったのだが、息子は、チョット目の話した隙に見えなくなった。
2〜3分の間だ。
あのヤロー! 何処へ行った??
4人で必死に探したが、見つからない。どうしよう?!
 そうだ、迷子センターがあるはずだと思い、早速行ってみた。
居た居た、神妙な顔して立ていました。一安心です。
携帯電話で女房に知らせ、息子を引き取り待ち合わせした場所に向かった。
家族で、4回程行ったがその内、2回迷子になった。

 5年生の時、晩翠児童賞を受賞した。
我が校で2人目の快挙だった。
授賞式は、仙台の○○で行われ家族で出席した。
その時は、してやったりの気分。 良くマー、あの子がこれだけの賞を貰えるような成長したなと胸が熱くなった。
記念にとして翌年の春、小学校に本を買って役立てて欲しいと10万円寄付した。

 やがて、小学校の卒業の日が来た。
私が、某社を退職した年。
女房と2人で卒業式に出席した。
これまでの年月を思い、感無量であった。
posted by 桜 at 15:58| 宮城 晴れ| Comment(5) | TrackBack(0) | 思いで | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月22日

お酒

お酒の好きな人達がいた。
最近、お土産や、スーパーの酒コーナーに行くと胸が熱くなる。
良い酒、買って帰っても喜んで供に呑む人も居なくなった。
供に飲み交わした日々が懐かしい。
posted by 桜 at 15:30| 宮城 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 思いで | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月14日

息子の成長(退院)

未熟児で生まれた息子。
母親が退院しても、小児科に移され一人病院で残った。
なかなか、普通の体重にならない。

入院1ヶ月3000g迄成長した。

その間妻は、少しでも自分の乳を我が子に飲ませようと、出ない乳を少しづつ絞り冷凍保存した。
その乳を、祖父が1日おきに仙台の病院に運んだ。
家族は、数え切れないくらい仙台の病院に通い、子供の成長を見守った。
やがて、1ヶ月が過ぎた頃退院の許可が下りた。
待ちに待った親は、良い日を選び仙台の病院から我が子を家に連れ帰った。
子供は凄く元気だった。家族は、仙台の労災病院の方々に感謝した。
我が家に男の子が出来た。
家族は、8人に成った。

その夏に、親戚一同を招待し 孫ぶるまい を行った。
皆、元気な息子を見て喜んだ。

暑い暑い夏だった。
それから息子は、親戚の方々、地位の方々に愛され元気に育った。

posted by 桜 at 16:36| 宮城 曇り| Comment(1) | TrackBack(0) | 思いで | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鹿島台の互市

この時期に成ると思い出すのが、鹿島台の互市だ。
たしか、輝男さんが退職した年だったか、定かでないのだが元気な頃だった。
輝男さんが新車を買ったので試乗も兼ねて、数人で鹿島台の互市に出かけた。
季候も良く、行きながらビールや、おやつを買い込み楽しく会場まで行った。
 久々の互市。 色々な店が出展していた。
色々見て歩いて、何だったか花の苗木を買った。
その花は、この時期になると庭先で花を咲かせているんだろうな!
皆でブラブラと見て歩いてる内に雨が降ってきたりしてバラバラになった。
何となーく、人の動きに合わせ駅の方まで来ると皆集まった。
不思議なモノだ。
何処かで、昼飯でも食べるかと云うことになったが此の町は不案内。
佐沼まで戻って、昼飯を食べた。

何だか、とても楽しい日だった。

身体が丈夫な内に、彼を誘い遊び廻った事。
本当に良かったな。
そうでないと仕事の他は、パチンコばかりの人生だったろう。
posted by 桜 at 12:02| 宮城 曇り| Comment(0) | TrackBack(1) | 思いで | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月07日

息子の成長(誕生)

今日、息子が一関高専に入学した。
式に出席して、誕生からの今日までの事が色々と思い出された。
誕生したのは、平成元年5月13日だった。予定より、2ヶ月も早い誕生。
さて、どうしたモノかと家族は・親戚は、心配した。

平成元年春。丁度今頃の時期。
女房が妊娠中毒になり、お腹の中の子供は成長が止まった。
地元の病院では、どうすることも出来ずに仙台の労災病院に転院した。
確か、5月の連休だったと記憶する。
検診を受け、早速入院する。
東和から労災病院へは、片道2時間。
連休の最後の日に様子を見に行った時は悲惨だった。
どの、路線も混んでおり家に帰って来る迄に6時間を要した。

会社が始まり、13日午前に見舞いに行っていた親父から電話が入った。
今日中に帝王切開して、子供取り出さないと母子とも危険な状態だと。
親の同意が必要なので直ぐに来るようにとの事だった。
藤沢の実家から、義母を連れ労災病院に向かった。

高速道を使い可成り飛ばしていき病院に着いたのが、午後の3時頃。
父親、母親それに、未だ幼い姉たちが首を長くして待っていた。

早速、同意書に署名し手術となった。

生まれてきたのは、1300グラムで、猿の様な顔した超未熟児だ。
女なら丈夫なのだが、男の子は、ひ弱なのでチョット心配との話し。

早速、色々なチューブ?線?等が身体中に取り付けられ保育器に入れられ24時間監視体制で見守られる事になった。
息子は、保育器の中で手を動かしたり、足を動かしたり、見えるのか見えないのかキョロキョロしている。
posted by 桜 at 15:57| 宮城 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 思いで | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月14日

ワンパク盛り

親父に聴いた話し
輝男さんは、戦後しばらく家で暮らしたそうだ。
その頃は、同じ年頃の従兄やら叔父叔母やら大家族だったとか。

 同じ年頃の男に子達3人は、皆ワンパク盛り。
特に輝男さんのワンパクは、凄かったとか。

 ある時、猫を追いかけて足下も見ずに御上〜居間に走ってきて足を踏み外し土間に頭から落ちて、大きなこぶを出したそうだ。

 又、ある時は、何人かの友達と 隠れんぼ をしていて、輝男さんは、馬小屋の2階に隠れたそうだ。2階と言っても干し草だの、藁を上げて置く棒を渡した程度の処だ。
何かの拍子に、足を踏み外して馬小屋に真っ逆様に落ちたとか。
その時、馬に蹴られなくて本当に良かったと話していた。この時は、堆肥の上に落ちたので怪我は、殆どしなかったとか。

 これは、橋本屋に移ってからの話だが、輝男さんカブト虫取りに行った時の事。
サイカチの木の幹に沢山カブトムシが居たので、幹の根元を思いっきり蹴ってカブトムシを落とそうと、下駄を履いて蹴ったそうだ。
そしたら、下駄が滑って足に大きなサイカチのトゲを刺したとか(サイカチの木には、大きなトゲが有って危ないのを承知していたはずなのだが!)
血だらけに成って、家に飛び込んで来て、智明おんちゃん何とかこのトゲ抜いてけろと頼んだとか。親父(三男夫)は、軍隊あがりの豪傑。云うと ぶん殴られる と思ってたのだろう。親父に知られない内に抜いてもおうとした様だ。
親父(智明)も、色々やってみたが、サイカチのトゲは、抜けなかったそうだ。5pもある大きなトゲだ。さぞ痛かっただろう。 でも、歯を食いしばり脂汗流しながら泣かないで頑張ったとか。
どうしようもなくて、親父が付き添っていき、輝男さんの親父に事情を話して上沼の本田医院とかに連れていってもらい、切開してトゲを取ったそうだ。

 かれは、カブトムシが大好きで病気する前には、飼育のネットを張って大量に飼っていた。そして、欲しい人がいれば勿体ぶりながらも、ニコニコして分けてやっていた。
posted by 桜 at 21:54| 宮城 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | 思いで | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月02日

帰郷

この話は、亡き父から聞いた話。

輝男さんは、北京で生まれたそうです。
親子3人で撮った写真が残っています。
戦況が悪化してきた頃に、父親(三男夫さん)が、兄(直衛)の子供達も一緒に嵯峨立の実家に連れて帰ったそうです。
その頃は、飛行機もなく不便で父親は、十日間の休暇をもらい北京か釜山港まで汽車を乗り継いで来て船で玄界灘を渡り北九州へ、そして又汽車で大阪〜東京〜仙台〜瀬峰迄来て、徒歩で実家迄たどり着いたそうです。
幼い三人の男の子を、おぶったり、抱いたりしながらの長旅で、不眠不休で帰って来たと聴かされていました。 
三人のワンパク盛りの子供達、船の中では可成り大変だったようで、何度玄界灘に捨てようかと思ったが、後に里で元気に遊ぶ姿を見て捨てないで連れて帰って良かったと云っていたとか。
私達が、子供を連れて数時間旅行するのも大変だと思っていますが、叔父のそうした長旅の苦労想像を絶するモノがあります。

その様に苦労して連れて帰ってくれた父親(三男夫)は、二十数年前に亡くなり、又その息子も昨年同じ年で亡くなりました。
叔父が連れて帰った子供達、三人のうち生き残っているのは、現在一人だけ。
帰郷から数十年、彼らにもそれぞれの人生があり、良くても、悪くても、ふるさと嵯峨立で暮らせ、そして社会に出て次世代にバトンタッチ出来た事は、良い人生だったのでは、と 一人思いでふけっている 平成十八年正月二日 です。

そんな事が無ければ、戦後の混乱の中、残留孤児と成っていたかも知れません。
そして、この地に帰って来る事も出来なかったのでは。
posted by 桜 at 10:50| 宮城 曇り| Comment(20) | TrackBack(1) | 思いで | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月15日

厄年の災難

あれは、たしか輝男さんが42歳の春だったかナー?!
当時輝男さんは、観光バスに乗っていて、休みになると良く手伝いに来ていた。
いや、自分の仕事したんだったかな??
ある、晴れたある日、家の親父と雑木山に入り椎茸の原木切りに行った。
何時もの様に順調に仕事が進んでいただそうだ。
太い楢の木を切り倒し、定尺に切断作業をしていた。
木と身体のバランスが悪い状態でチェンソーを使い、アッ!と思った瞬間に定寸に切った木が足に落ちた。
激痛が走ったが、大した事無いと思いながら父親に伴われ我が家に帰ってきた。
止血はしていたのだが、長靴の中は、真っ赤な血が溢れんばかりに貯まっていた。
再度、血止めをして当番医を探したら何と、米山の国保病院だった。
 私が直ぐに病院に連れていった(今思えば、救急車を呼べば良かったか)。
可成り痛かっただろうが泣き言一つ云わずに助手席で足を押さえていた。
40分程で病院に到着し、傷の状態を見てもらったら足の土踏まずの部分が20p程裂けていた。
早速、縫合して手当をして貰った。
 その日は、それで帰ったのだが結局歩くことが出来ずに入院する事になった。
米山では、遠いので中田の大阪医院に2〜3ヶ月入院した。
昔から云われているように、厄年には、色々な災いが降りかかる。
と此の時は、痛切に感じたものだった。
posted by 桜 at 16:51| 宮城 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 思いで | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月06日

親父と旅した事があった(幼き頃)

50歳を過ぎた小生。夏に亡くなった親父と、旅したことが2度あったと記憶する。
1回目は、幼かった頃。
かすかな記憶しかない。
3歳か、5歳か、未だ小学校に入る前だったと記憶する。
 その頃、炭焼きをしており、ある程度貯まると西郡の秋田健ちゃんの3輪車を頼んで塩竃の問屋に売りに行くことがあった。
炭焼きをしていた時期だから、冬場だったかな!??
炭を満載したトラックに載せてもらい、親父と出かけていった。
 その時は、何かの博覧会だったか、展示会をしていたそうで、巡洋艦だったか、それに類する艦船が停泊しており、見物したのを微かに覚えている。
暗くなってから、鈴負荷の親戚の家に戻った。
戻ると、叔母さんと、叔父さんが出迎えてくれた。家に中は、何だか薄暗くチョット不安に成った様な記憶がる。
一晩泊まり、朝起きると庭で住み込みで働いている、康二さんとか数人の人達がラジオ体操していた。
 その日は、仙台に行った。
親父に片車してもらって長い道を歩いた。その道路の脇には、鉄塔があった。
後で聴いた話だが、幼い私がよそ見して歩いて、水たまりに入り服を汚したそうだ。
不器用な親父。どうしようかと思っていた処に娘さんが来て、汚れた服を拭いてくれたそうだ。
あの時は、本当に助かったと、親父が何度か話していたことがあった。
仙台では、博覧会があったそうで、それを見に行った、とか聴いた事がある。
見た記憶は、全くない。
午後に塩竃に戻り又、炭を売りに来た秋田健ちゃんの車で帰ったのだろう。
暗くなってから、家に着き、買ってもらった積み木を母や、祖母に見せていた光景が記憶にある。
posted by 桜 at 16:42| 宮城 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | 追憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

輝男さん結婚式の日

輝男さんが結婚したのは、私が未だ学生時代だったと記憶する。
昔は、結婚式場は使わずに自宅で式を挙げ、披露宴をしたモノだった。
私が、未だ若かった為か断片的にしか覚えていなのだが。。。
料理人は、当時 岩沼で割烹料理店を開いていた、小藤田叔父が来て仕込みからいっさいの料理を造ったと記憶する。
今までに見たことのない様な、野菜や、果物で細工した料理がお膳に並んだ。
招待客が皆大変に驚き喜んで貰えた。
料理の裏方では、手伝いの本家の忠雄さんが、料理に使うため準備していた鳥の股とか、刺身とか、旨い旨いと云いながら片っ端から平らげたとか。
招待した皆さん、歌や踊りで盛り上がり楽しい一時を過ごした。
披露宴が終わり、新婚さんはミニカで新婚旅行に出かけた。
残った幼なじみの、邦夫さんが酔っぱらった勢いで、役場に勤めている同級生がお祝いに来ないとか云って、押し掛けた。
一緒に行ったのが、親戚の松チャン。
車は、スバルの360(テントウムシ)だ。
二人で、テルイ迄行った時、車とすれ違ったとか。
そして、運転が上手くない松チャン、川沿いに車を寄せすぎて路肩が崩せて、北上川に車が転げたとか。
水に入る寸前で、車は、雑木だったか、藤弦だったかに引っ掛かり止まったそうだ。
二人は、そうっと車から出て、後酒盛りしている処に電話で知らせてよこした。
それからが、大騒ぎ。
大人達は、皆飛び出していった。
何とか車を上げて帰ってきたときは、酒はすっかり覚め、親父などは、怒る怒る。
せっかくの結婚式がだいなしになった。
でも、新婚旅行に行った二人には、知らせずにおき、帰ってきたときに話してやったとか。
その後、新婚さん2人は、仙台で新しい生活を満喫した。
posted by 桜 at 16:08| 宮城 雨| Comment(0) | TrackBack(2) | 思いで | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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